奈良教育大学付属小学校の教育や教員を否定する報道は、自分が歩んできた教育や教員という仕事を否定されているという思いにさせられ、憤りとともに悲しくなります。
私の場合、「学習指導要領通りの教育」の貧しさというものを学生時代に出会った静岡市の教育サークルで成長する青年教員たちの熱い実践から知りました。また、家永教科書裁判の学生支援の運動を通して「国民の教育権」の思想を学んでいきました。
1979年に京都府南部の公立小学校の教員になり、教育の自由の空気を謳歌した最初の6年と1985年からの教育の不自由さ=「学習指導要領通りの教育」の強制の時代を渡しは実体験していきました。1960年代初頭からの全国各地に吹き荒れた「教育正常化攻撃」は政治による教育への乱暴な介入でしたが、蜷川民主府政落城後5年ほどからの京都では、保革の政治的力関係の拮抗という状況から特別に異常だったのではないかと当事者の一人としてとらえています。京都府の教育行政が先頭に立って推進した優れた到達度評価実践を、今度は行政自身が全力で全否定して、「学習指導要領通り」へと大転換したのですから。
「憲法」「教育基本法」「自治」「学力保障」「到達度評価」「学級集団づくり」等の“言葉狩り”があらゆる教育に関する文書(例えば学級経営案でも、学習指導案でも)で「指導」「強要」されました。教科書会社がつくる教科書の指導書を「手書き」で「丸写しにする」年間指導計画づくりが各学校毎に強要されました。たいへんな時間を費やして出来上がった年間指導計画は電話帳よりも厚かったのですが、使う値打ちがないことはみんなが知っていましたからロッカーで眠る価値しかありませんでした。
提出しなかった教員の名前を職員室の黒板に書き出された「週案(週指導案)」の提出強要は異常でした。単元名だけでは絶対にダメで、各授業の指導目標などを1時間毎に詳しく書くことを求められました。書かれた「週案」が学習指導要領通り(教科書会社がつくった指導書通り)のものであるのかどうかが管理職にとっては重要でした。提出された週案通りに授業が行われているかどうか「観察」に教室を回るというのが校長や教頭の新たな仕事になりました。私の場合、週案の提出強要に反対して、年に1回だけ指導主事「計画訪問」の時だけ該当の週のみの週案をコピーするという妥協をして定年退職まで押し通しましたが、それでも「週案」をめぐる葛藤は大きなものがありました。二重帳簿と割り切ってしまえばいいのかも知れませんが、そんなために多大な労力を費やす「週案」とは何だったのか。日々の授業を学習指導要領通りにコントロールするための道具でした。屈服を強いる毎週の「踏み絵」でした。
指導主事「計画訪問」がすべての学校、すべての教員に毎年行われ、公開する授業の指導案が事前に「検閲」され、書き直しを命じられました。これも屈辱的なものでした。指導主事の力量も劣化しました。
学習指導要領通りの教育は、教員から自主性と創造性を奪い、よい授業をしたいという意欲をも奪いました。授業の質が低下し、子どもたちが荒れていくのは必然でした。学習指導要領を絶対化し、批判的な検討をも許さない教育の末路がここにあると考えました。
そうした「学習指導要領通り」「教科書通り」以外の教育はまかりならんという「教育」のあり方に対して、別の教育があることを幸いにも私たちは知っていました。「知っている仲間」が、京都には本当にたくさんいました。
国際的にも高い評価を得ている日本の民間教育研究運動によって創造された教育実践の積み上げ、組合の教育研究集会では地域や県内、全国の教育実践が報告交流され、学び合われてきたのです。
私たちにとって、こうした教育の自主性を大事にした創造的教育の“希望”として奈良教育大学付属小学校の教育があるということをぜひ知ってほしいと思います。
行政権力による「学習指導要領通りの教育」の強要に傷ついた少なくない京都の教員にとって、自主の精神に貫かれた奈教大附属小学校の教育に希望を見出だしていたのです。正直言って、学校全体で教育課程の自主編成に取り組むことは京都の教育現場ではかなりの困難さがありました。それでも私たちは「学校づくりの中軸に教育課程づくりを」というスローガンを掲げ、「自前の方針を持って教育づくりを」「年に1回は教育実践をレポートに書いてサークルや教研集会で発表しよう」「総括をおざなりなものにしない」などに取り組んできました。「たとえ一人からでも」と励まし合って。
私たちにとって「夢のような」、学校ぐるみの自主的教育課程づくりの姿が奈教大附属小学校にありました。学校ぐるみを可能にしたものは民主的教職員集団づくりや民主的学校運営の努力であるということも承知していました。
附属小学校は、教育課程の自主編成の大切さを理論と実践の両面から示してくれました。何よりも子どもたちのありのままの豊かな発達の姿がここにありました。こういう学校だからこそ、京都の教員にとって管外研修の一番の人気校は奈教大付属小学校であり、その研究発表会だったのです。
だから私は、奈教大付属小学校の教育の営みへの攻撃をひとつの附属小学校の教育への攻撃として完結するものであるとは考えていません。日本の教育全体を対象に、あらためて「学習指導要領通り」の教育へと支配・統制する2024年版の国による「教育正常化攻撃」であると。そうした警戒心を怠らないことが求められているのではないでしょうか。