宮下俊也学長名の「奈良教育大付属小学校教員の人事交流について」(2/29)を読みました。ここにある「開かれた学校」とは何でしょうか?誰に対してでしょうか?この前提には、現状に対する「閉じられた学校」という認識があるはずです。しかし、このホームページに投稿された保護者や卒業生、また付属小の教育実践に学んできた方々のご意見を読ませていただくと、みなさんの信賴を得て学校が運営されてきたことが伝わってきます。
この学校運営を解体するための理屈づけとして「開かれた学校」という文言を持ち出し、教員の「出向」を強行しようとしているにすぎません。強行と私が受け止めるのは、その法的根拠を示すことなく、何やらいいことのような説明を書き連ねているにすぎないからです。
そもそも「開かれた学校」とは1987年の臨時教育審議会答申が掲げた文言です。私が勤務した都立高校では、90年代末からの教育改革でこの文言が頻繁に使われました。結果として、職員会議を中心とした教職員による学校自治が解体されました。これが「日の丸・君が代」の強制とほぼ同時進行だったことは先の投稿で述べたとおりです。また学校教育の市場開放も少しずつ進んできました。昨年度から導入された都立高入試の英語スピーキングテストもその一例です。これは都立高校の教員ではなく、私企業が都教育委員会の委託を受けて実施するものです。
つまり、教育行政による支配と企業による利潤獲得の場に、学校がなってきたのです。これが「開かれた学校」の現実です。「権力と資本に対して開かれた学校」に転換させられたといえます。
校長の学校経営に意見する教職員に対しては、導入された人事考課制度によって昇給等の基準となる業績評価を低く付けることも可能となりました。また都立高校には異動がありますが、その要綱も改められました。同一校勤務が基本6年にせばめられ、さらに校長の意向によっては1年でも異動させられるようになりました。私も多摩地区西部の夜間定時制高校に勤務していた時、突然、片道2時間近くかかる本郷の東大近くの全日制高校に移動させられました(職場の空気は柔らかく救われました)。
私は自分が経験してきたことを省みて、付属小教員の皆さんへの「出向」強行は、不当な「処分」「懲罰」以外の何物でもないと考えます。不当と受け止めるのは「処分」「懲罰」を受けるべき理由が全く見えないからです。
岡山輝明さんの投稿、「『開かれた学校』とは何でしょうか?」を読み、とても励まされましたし、考えさせられました。有難うございました。
わたしもこの課題について考え合いたいと思いました。