15日に付小で卒業の「会」(全校の子どもたちで創りあげる児童会行事。卒業生保護者も参加)がおこなわれました。
参加された方から、
「すべてが児童の手作りで、、、日頃の教育で児童が自発的に活動しているからこそできる、、、あらためてこの独自教育を守るべきだと、、、」
と連絡いただきました。
そこで、大学の【相談窓口】に次のコメントを送りました。
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仲間でつくる営み…
こんにちは。元付小教員です。15日の付小での卒業の「会」のようすを出席者から伺いました。
学校は子どもたちが仲間とともに楽しく喜んで通う場、仲間との明日の暮らしを待ち望む場でなければなりません。15日の「会」はそのことをはっきり教えていたのではないでしょうか。
子どもたちと教職員の皆さまは、不安が小さくない厳しい状況のなかで、この「会」を例年以上に懸命になって創りあげられたと思います。
そして、卒業生の保護者を含めた付小のみんなで成長を確かめ合い、自分たちへの自信を深め合い、結びつきをつよめ合って、この瀬戸際においても「みんなのねがいでつくる学校」をいっそう前進させました。
学長先生が実際に見聞きしてくださった「会」を「みんなのねがいでつくる」ことのこんにち的意義に照らしてご検討ください。人が人らしく生きていくためには《仲間》の存在が欠かせないことをより深くつかんでいただけるだろうと思います。ぜひよろしくお願いいたします。
この学校の授業を参観した感想。「みんなのねがい」の「みんな」の中に入れてもらえない子結構いました。落ち着かない児童をきちんとその場で指導しないおかげで、学習権を侵害されている子がいましたよ。さらにカリキュラムに偏りがあるのだから、学校を卒業した後苦労するのは目に見えているのでは?「みんなのねがい」というキャッチー性に惑わされず、適切な判断が必要かと。
全てが児童の手作りなどではなかったですし、教員にとっての「自由な教育」しかなかったと記憶しております。
教員の方々の思いにそぐわない意見は悉く教員により説き伏せられ捩じ伏せられ軌道修正されたと認識しています。
みんなが楽しみにしていた「クローバーリレー」もそのような形で廃止に追い込まれたのではかったのでしょうか。
児童の話し合いでは存続の方向であったにも関わらず「努力しても速く走れない子がいるのに走るのが速い子が活躍するのはおかしい」と泣いて訴えられた教員によって議論が軌道修正されたと聞いております。
その方は、努力しても児童会などで人前で話すのが苦手な子のことはどう考えておられたのでしょうかね。
勉強やスポーツで頑張る子が認めてもらえる機会は一切なく、児童委員で活躍するような弁の立つ子が「良い子」。児童の自主性に任せるとしつつ、結局は教員が裏で思うような方向に誘導していたのではないですか?
勉強やスポーツなど、自身の得意なことを一切認めてもらえなかった子達にとってこのような学校は苦しい場所ではなかったのでは。
誰にでも承認欲求はあります。たとえば「勉強が得意」なのもその子の個性。それぞれを見守り育ててくださる学校こそ児童にとって幸せな場なのではないでしょうか。