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まほろば

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フォーラム記事

まほろば
2024年2月07日
In 教員の出向人事・学校運営について
讀賣新聞オンライン(1.24)学校長インタビュー記事「組織改革『職員一丸で』」より抜粋  奈良教育大付属小(奈良市)で、授業時間の不足や履修漏れがあった問題で、同小の小谷隆男校長が読売新聞の取材に応じた。大学は今後、付属校などを担当する副学長ポストを新設するほか、同小では県教育委員会と互いに人事交流を行い、組織改革を進める。小谷校長は「他の公立校の手本となれるよう、職員一丸となって取り組みたい」と語った。 https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20240123-OYTNT50263/?fbclid=IwAR2d2juy0CkgUVMjkJx0Loeh6L6NlgzsWBMmu-TpHSwwfHfdvK9jZ1E9dI4#dtdu4jybrkm  大学がまとめた調査報告書は、問題の発生要因として、教員が非協力的で校長のガバナンスが機能しなかったことや、受け入れのみの人事交流で組織が閉鎖的だったことを挙げた。授業の進め方に教員個人の独自の考え方が強く働き、教科書の使用や指導内容で、コンプライアンスが欠如していたとも指摘された。  こうした調査の結果について、小谷校長は「教員は子どものためと考えて取り組んできたが、法令に基づく対応が大前提であるべきだった。開かれた学校にするためにも相互の人事交流を進めたい」とした。 関係教員については「適正な学校運営を妨げた」として、処分を検討している。
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まほろば
2024年2月07日
In 教員の出向人事・学校運営について
奈良教育大学附属小学校の教員は、教育の本質を深く考え抜くことを大切にしています。そのことは、子どもたちの様子を見ていただければよくわかります。他では見ることのできないくらいに元気で、自分の意見をみんなの前で臆せずに声を上げる子どもがたくさんいます。教員からの問いかけにも、子どもらしい反応が素直に返ってきます。これは、「自分がこの集団の中で受け入れられている。何を言っても、何をしても、もし間違ったとしても大丈夫。」という集団への信頼と安心感からくるものだといえます。  そこには、目の前の子どもに対して、短期的に「理想の子ども像」の型にはめようとせず、子どもたち自身の輝きを大事にしながら長期的な視野で子どもを育むという本校教職員が大切にする教育理念がはっきり見えます。そして、丁寧に議論しあう教職員集団としての共通理解がその根底にあり、きめ細かな教育実践と情熱に支えられているものだと感じます。  校長として赴任間もない私には、まだまだ見えていない部分も多いと思いますが、基本的にこの方向性は素晴らしいと思っています。わかってはいてもなかなか実現できないという意味において、稀有な学校だと感じます。校長としてこの方向性に共感し、さらに進めてほしいと考えています。そして、地域の皆様の期待に応えることのできる付属小学校として、本校から研究成果を発信し、より優れた教育実践を広めていきたいと思います。 校長 小谷 隆男 https://www.nara-edu.ac.jp/ES/profile/greeting.html
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まほろば
2024年2月06日
In 教育課程について
1月20日Yahoo!japanニュース 前屋毅氏(フリージャーナリスト)の記事より抜粋  増えるだけの学習指導要領の全部を教えるのは無理で、軽くしたりなくしたりすることも必要で、それを判断するのは先生や教育委員会だ、と解釈できないだろうか。それは間違いだろうか。  間違いでないとすれば、まさに盛山文科相の言っていることを先駆的に実践していたのが奈良教育大附属小学校ということになる。同校の教員は、子どもたちのことを考えて、教員として努力をしていただけなのかもしれない。それは褒められこそすれ、責められることではないようにもおもえる。  少なくとも、盛山文科相は奈良教育大附属小学校の実践を認めてしかるべきである。なにしろ、自分が考えていることを、すでに実践例として示しているのだから。  にもかかわらず、「遺憾」の一言で切り捨てるのはいかがなものだろうか。「遺憾」と口にしたことのほうが、よほど遺憾である。  盛山文科相は、自分の発言に責任をもつためにも、奈良教育大学附属小学校を簡単に切り捨てるのではなく、むしろ支持を表明すべきなのかもしれない。 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/cc5955b27ad06506455c36c166c6c4140b5b7e97?fbclid=IwAR3tPd5XmZJvyraAX1Zu6ACXiZZBSlU7YbiMQpN4G2ZWKNVuUQycFRTAa1s
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2024年2月06日
In 教育課程について
1月18日Yahoo!Japanニュースの寺沢拓敬氏(関西学院大学社会学部准教授)の記事より抜粋 (大学の報告書は―引用者注)小学校英語関係者から見たら噴飯ものです。外国語活動でも何でもよいから粗探しをしてやろうという腹黒い意図を感じてしまいます(だとしても,もう少し賢い「粗探し」もあっただろうに,よりによってこれか…と思います)。 外国語活動の当該記述は下記のとおりですが,「話すこと」の指導はあくまで言語活動の例示としてあげられているものであり,杓子定規的に守らなければならないわけではありません。 また,「聞くこと」については特に指摘がされていないところを見ると,ちゃんとできていたということになるんでしょうか。聞くだけで話さないという言語活動もあまり一般的ではないと思います。 この点も,小学校英語に基本的な知識がない人が,無理して粗探しをした結果,このような支離滅裂な主張になってしまったという可能性が濃厚です。 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/8646138b66fbe8f0ec3e9881911992ccacb16dee?fbclid=IwAR2Gq7_Gh-KuMemlVBRvo-LK1EWEqA-aGGUvnpM1jUZb1EGpX-YSNMl98ao
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まほろば
2024年2月06日
In 教育課程について
学習指導要領の内容通りに教育課程を編成していなかった教員たちが、「犯罪者」のように扱われ報道されていることに心が痛む。 なるほど、教育課程は確かに文科省により学校教育法施行規則に定められている。 しかし、その細部にわたって「法的拘束力が認められるか」については、これまで行政上、司法上で争われてきた歴史がある。 まして、刑事法により禁止された処罰される不法行為である「犯罪」には当たらないであろう。 そもそも、教職(=教師という仕事)は、自身の「教育的見地」に基づき、裁量性と専門性を行使して自律的に働く専門職(profession)ではないのか。また、教師は専門家であろうとしなくてよいのだろうか。 ILO・ユネスコ(1966)は「教員の地位に関する勧告」で「教職は、専門職とみなされるべきである( Teaching should be regarded as a profession.)」と勧告した。 中教審(2012)は「教員を高度専門職業人として明確に位置付ける」としている。 しかし、医師や弁護士のように専門職と認知される要件は、①高度で体系的な専門知識・技能の必要性とともに、②職務の自律性、③職業集団メンバーとしての職業規範や倫理観の高さであるとされる。 日本の教員は大学教職課程で取得する教員免許を必要とし、①の要件は一応満たすというものの、②や③の要件が十分に満たされているとは到底言い難い。 特に、文科省は、教員の自律性、裁量性発揮にはとても統制的だ。 欧米の先進国では、教育課程の編成や教科書の検定、教員養成課程や(専門性の)育成指標、研修の内容などの策定に関し、教員組合や教育団体、学会などの代表者を加えて検討することが当たり前のように行われている。 日本では審議会などに教員や研究者を個人的に参加させてはいるが、団体としては一切触らせず、文科省が全てを決定する姿勢を貫いている。 組織の一員として上位機関の指示通り動く献身的な「公僕(public servant)としての教師」像や、学習指導要領の内容を漏れなく子どもに注ぎ込むパイプのような「技術的熟達者(technical expert)としての教師」像を求めてきたと言えるのではないか。 また、世取山(2008)が指摘するように、新自由主義的な政策の下で、教員自ら「主人(principal)」の意向に沿って働く「代理人(agent)としての教師像」を求めているのではないか。 そのため、教育研究者からは「教師は、専門職労働者(professional worker)」(市川1969)、「教職は、準・専門職」(竹内1972)などと位置付けられることが多かった。 しかし、本当にこのままで良いのか? 医師や弁護士などの職が専門職として認知されているのは、長い歴史の中で同業集団がその地位を高めるためにさまざまな努力を重ねてきた結果である。 世界では、教職を専門職とするために、修士課程での養成の推進や、専門性指標作成、教員団体による倫理綱領作成などの努力が重ねられている。 また、子どもの成長発達を促す教師自身が専門家たらんとせずに、創造的自律的に教育活動を行うことを諦め、ただお上が決めた教育課程をパイプのように注ぎ込むことだけに専念するならば、教職のよろこびや働きがいは感じられず、保護者からの敎育権の付託に応えることはできないであろう。 今回の「事件」について、ただ「施行規則違反」の是非だけではなく、そもそもの教職のあり方、敎育のあり方を、みんなで議論するべきではないかと考える。 ILO・ユネスコ(1966)「教員の地位に関する勧告」。 市川昭午(1969)『専門職としての教師』明治図書。 竹内洋(1972)「準・専門職業としての教師」『ソシオロジ』第17巻第3号、社会学研究会。 中央教育審議会(2012)「教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について(答申)」。 世取山洋介(2008)「新自由主義教育政策を基礎づける理論の展開とその全体像」『新自由主義教育改革―その理論・実態と対抗軸』大月書店。
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2024年2月06日
In 教育課程について
「教育新聞」2023.12.31「盛山文科相に聞く㊤」より抜粋 ただ、追加、追加でどんどん増えていくだけなら、限られた授業の時間で全部教えるのは無理だろう。そうすると、今まで丁寧にやっていたものを軽くしたり、場合によってはなくしたりすることも必要となる。また、文科省はベースとなるものを学習指導要領としてお示ししているだけだ。実際には学校の先生や教育委員会の判断になる。 https://www.kyobun.co.jp/article/2023123101?fbclid=IwAR0Q6NPMPd_rMWcK_oOCG-DHd7svm2kOgWVAN6_nosaWFcepuMMLXw3QvcA 記事一部抜粋  2023年12月21日に教育新聞のインタビューに応じた盛山正仁文科相は学校現場でICTを活用する必要性に触れつつ、自身の子ども時代や子育ての経験などに基づき、「リアルな体験が大事だ」と強調した。増加を続ける不登校の児童生徒に対する支援策や、少子化が進む中で教育予算を確保することの難しさなど、幅広いテーマの質問に答えた。2回にわたるインタビュー詳報の前半では、盛山文科相の教育観や学習指導要領を巡るやりとりを紹介する。 「子ども同士のやりとりは社会で生きるトレーニング」 ――これからの小中学校や高校の教育において、大切なことは何だと考えるか。  子どもたちに関心を持って学んでいってもらうことではないか。私自身もそうだったが、「あれをやれ」「これをやれ」と言われるのは面白くない。でも、自分で「これ、面白いな」「これ、何でなんだろう」と思うと、昔はインターネットがなかったから、自分で図鑑を見たり、人に聞いたりした。自分で興味や好奇心を持って学んでいくところが大事なポイントだ。小学校や中学校の先生は、子どもを見ながら好奇心を伸ばすとか、興味を持ってもらうとか、そういうふうにして育てていっていただくことが大事ではないか。  自分の子どもを見ていて感じるのは、今は自然に触れる環境がないことだ。長女が小学生だった30年以上前、東京23区内の共同住宅に住んでいた。周りの道路は全部舗装されており、外で遊べる環境ではなくなっていた。夏休みに長野県へ旅行に行った時、宿の外へ出てアリを見つけた長女が「虫がいる」と言ったことに、すごくショックを受けた。  私は大阪市内で育ったが、子どもの頃には原っぱやどぶ川、池があり、虫も捕まえることができた。ザリガニやおたまじゃくしを取りに行ったこともある。しかし、長女が子どもの頃に共同住宅で見た虫はゴキブリぐらいだ。いかに自然に触れなくなっているのか、子ども同士で自由に遊ぶことがなくなっているのかと痛感した。  私が子どもの頃は、暗くなるまで学校の校庭で遊んでいた。「いい加減に帰れ」と先生に言われることもあれば、ご近所のお母さんが「そろそろ帰りなさい」と言うこともあった。それだけ外で遊んでいたので、子どものコミュニティーもあった。子ども同士でいろいろなやりとりをすることが社会で生きていくためのトレーニングにもなる。 平和の大切さは教えた方がいい ――中教審で次期学習指導要領に向けた議論が少しずつ始まっている。国が定めるカリキュラムの望ましい在り方について、どう考えるか。  時代が進み、昔は考えていなかったようなことが(教育課題として)追加されているのは事実だ。私はバリアフリー社会を進めるために、駅のエレベーターやエスカレーターの問題に取り組んできたが、その時に併せて「心のバリアフリーが大事」と言ってきた。エレベーターやエスカレーターなどハード面の施設整備はもちろん頑張らなければならないが、心のバリアフリーがもっと大事になる。施設が整備されていないところでは、相手の立場を慮って「何かお手伝いしましょうか」と声を掛けることが自然にできないといけない。知的障害の人も含め、障害に対しての理解をもっと広めてほしいという声もある。  国会の質疑では、平和が大切だとして「『はだしのゲン』を読んだことがあるか」と聞かれた。そういうことも教えた方がいい。時代によって追加されるものはあり、そういうものも含めて学習指導要領を見直していく。  ただ、追加、追加でどんどん増えていくだけなら、限られた授業の時間で全部教えるのは無理だろう。そうすると、今まで丁寧にやっていたものを軽くしたり、場合によってはなくしたりすることも必要となる。また、文科省はベースとなるものを学習指導要領としてお示ししているだけだ。実際には学校の先生や教育委員会の判断になる。
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