11月12日(火)、附小裁判第2回弁論報告集会での新東一樹さん(大学院生)の発言を、本人の了承を得て、ここに掲載します。ぜひお読みください。
都留文科大学大学院で臨床教育学の研究をしております。新東一樹と申します。
報道前、そして報道後も実際に付小を訪れ、その実践を見てきました。
ここ1年間で計7回奈良を訪れています。
そんな私の視点で今日は2点お話しできればと思っております。
1点目は、付小の実践についてです。
私が参観する中で大変感銘を受けたのは、教師の子ども理解の圧倒的深さです。
子どもたちは、時に肯定できないような言動を示します。
しかし、子どもたちの内面への共感を抜きにしたその言動を抑制する指導ではなく、彼らが生きている生活世界をその文脈、丸ごと理解してきたからこそ、その柔らかなまなざしが子どもたちを育んできたのだと考えています。
具体的に言えば、「教室後方の床に座っている子」が生きている生活世界を文脈として捉えると、「体育の後汗冷えした体を、教室後方の日当たりの良い床で温めながら授業に参加する子」となる訳です。
これは12月に授業を見に行ったときに実際にあった話です。
1年生の教室は確かに「きちんと」していません。
それは一人ひとりの発達の段階があるからです。
肯定できない言動をそのたびに厳しく指導せずとも、子どもたちは一人ひとりのペースで育ちます。それを実感したのは6年生の教室を見たときでした。
報道後の2月にも大学の自主的なゼミの仲間15人で授業を参観しました。
今は現場で奮闘している仲間とやり取りをする中で、「あの日見た教室が自分のなかでのロールモデルなんだ。」という言葉がありました。
一緒に学び、一緒に見た教室風景が公立小学校で働く彼の中の教育観をつくっているのだと感じました。
2点目は、事件とこの裁判に対する想いです。
私が最も憤りを感じたのは、この事件は子ども観、教材観に基づいた授業づくり、とりわけ付小の場合は、長年の実践研究を継承、進化させてきた先生方の教師としての専門性の剥奪に留まらないということです。
付小で学び、付小で確かに育ち、巣立っていった子どもたちの尊厳、そしてその育ちをも否定し、踏みにじったのです。
勿論、それを信じ支えてきた保護者の方々の想いもです。
そんな中、私にできることは限られているかもしれません。
しかし、原告の先生方、弁護団の先生方にできないことができます。
それは、裁判で傍聴席に座り続け、応援を可視化することです。
この部屋を出ても、今この瞬間もまさに事件の渦中にあることを伝えていかなければならない、そういう想いでいます。